平成27年12月8日 日弁連15階執務室にて想ったこと

私自身が65歳を過ぎて、内田樹先生の本に出会うまで、リチャード・ホーフ・スタッターの名著「アメリカの反知性主義」も勿論、反知性主義という言葉も知らなかった。
キャリアにも司法試験にも受かり、長年弁護士をやって来たとしても、自分にひたむきな知的情熱があったとは思えないが、全ての事を自己の経験知、今迄読んだ本、聞きかじった情報だけで、判断してきた自分が、いかに知性的でないかと今頃覚知することが出来た。

余りにも遅すぎる。

内田先生が言われている、ロラン・バルトの「無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった状態を言う」という言葉の意味を、内田先生に言われて始めて、少し理解できるようになった。すごく感謝している。

「知性とは知の自己刷新のことを言うのです」と内田先生は言われる。

カウンセラーの取る態度として指示的に説諭しようということより、相手を受容する(内田先生に言わせれば、ことの理非の判断を相手に委ねる)ということが大切であると言われるが、自分はそれを技法の一つにしか考えていなかったのではないかと後悔している。
カウンセリングが愛であるか技法であるかの対立論についても、これまで薄い議論としてしか把握していなかったのである。

これまで自分は知性的であると思って生きてきた時間が長すぎた。
今からでも誤りを是正出来るであろうか?

上の人、一流の人を羨み、下の人を見下し、本来助けを要する人を見て見ぬふりをして来た自分が今更の様に恥ずかしい。
内田先生は、知性は「集合的叡智」として働くのでなければ、何の意味もないとい言われる。
今迄の自分の内省化の未熟さを思うと、とても自分を肯定出来そうにない。
しかし、五代友厚プロジェクトのメンバーが居る。
映画創りという目的がある。大学、高校の同窓会がある。

皆で同じ悩みを抱えて、日本の反知性主義から脱皮できるプロセスへと今一度船出しようと決意した。ネルソン提督が、スペイン連合艦隊に大勝した時にしたように、自慢することなく、

「I have done my duty」

とだけ発言できるような体感を得たい。

今少し悩み苦しんでみよう。