喪の儀式が何故必要か?

喪の儀式が何故必要か?

法学者は法律には裁判規範と行為規範の二種類がある事を理解している。
日本国憲法20条、89条には国家と宗教の分離の原則が定めてある。

しかしその事で国家なり国民が祈りの儀式を軽視していいとの行為規範が書いてあるのではない。

科学的な歴史検証を経ている人類学的知見からすれば、国家の要素に弔いの儀式(宗教)が存在している事に争いは無い。
ポストグローバリズムの世界を描くには、憲法(含む明治憲法)の生成過程の検証とともに国家の本質が改めて論議認識されなければならない。
国家とは何か?物、人、金のグローバリズムの問題点についても論議されるべきである。

明治憲法は当初ナポレオンの居るフランスの憲法を手本にしようとしていたが、ナポレオンがプロイセン(ドイツ)に敗戦した事でプロイセン憲法を手本にされただけの事である。
当時、フランス革命等で国民が民主制という名の元に獲得した権利、自由がどの様に育み言語化されたかの歴史的検証は、人間が倫理性と普遍性を持つためには必須のことである。
当時のジョンロック等の社会学者の人間の遺産ともいうべき英知を学ばずして権利、自由を標榜することは子供のすることである。

個人の権利、自由は他者の存在を内蔵するものである。
個人の実存は他者との相対的関係と認識することによってしか成立しえないのである。

憲法に表示される人権は、人間が生まれながらに持っている生来の自然権であると言われることがあるが、とんでもない。
我らの先人が多大なる犠牲のもとでようやく勝ち取ったものである。
その人権を主張するには、先人の人閣の英知を学び、そこに含まれている倫理性を日々の生活の中で、他者の存在あっての自己であることを確知し続けることが絶対な条件である。
法律上の知識を得たからと言ってその中だけで人権とか自由とかを当然自分のものという思い違いをする人がこれ以上も増えると人間の集団、国家が続くことは不可能である。
第2のトランプを登場させてはならない。

葬儀を執り行う動物は人間だけである。

「人間は死者とコミュニケーションが出来る」という信憑そして先人の英知を理解し学ぶという信頼関係を結ばない社会集団は存在しない。
喪の儀礼とは焼香の順番とか、戒泡の値段とかでは無い。
喪の儀礼とは、先人の英知を体得する糸口に神の力を借りて立つことである。

そして死者(五代友厚)について、その誕生前から死に至るまで友厚の無意識の中にまで入り込んで、友厚が継承した先人の英知と、その上で目標とした行為規範を我々がまた敬承し、そして、それらを敬承することが必須である。
何故なら、そういう英知の継承の無かった人類の集団や国家は瞬く聞に消滅しているものであることを、歴史が証明しているからである。
歴史だけでなく聖書もその警鐘を乱打しているのである。

廣田 稔