五代友厚の本当の先見性

五代は、当時の欧米列強の強さの秘密が英国の産業革命による生産力の飛躍的向上にあることを肌感覚で感じ取り、何より英国の産業機械を輸入した。

それも優秀な先生とともに!

自らが聞きかじった知識を伝承することなく、一生慎み、学問の伝承は全てプロに任せた。
五代は中江兆民が日本に紹介したルソーの社会契約論も読み、国民国家のことも考えているが、それらを自分の意見の如く言うことなく、自らは大久保が求める強い国家作りの基となる経済の後押しに専念した。

思想の奴隷になってはどうしようもない。
思想とは自分達の支配すべき土木機械の一つであると思うべきものであると我々に告げている様である。

1865年の薩摩の英国留学が、当時の幕府、長州らの留学と異なり特筆すべきは、20名を送り、内16名は学生として送り出したことである。
目前の殖産興業だけでなく、50年、100年先の日本の行先を考えての人材育成のためにロンドン大学、スコットランドのアバディーンに学ばせたのである。

13歳の長沢鼎を選出した島津久光の先見性も見直しされるべきである。
久光の明治4年(1871年)7月14日の錦江湾の花火打ち上げは、諦観を含めての日本国の将来へのエールだったものとも思われる。

五代友厚は、天川村の鉱山に3000名位の鉱夫が集まると学校を作っている。
市大の前身の大阪商業講習所も作っている。
十五少年漂流記の少年達がまずは学校を作ったように。

今、語るべき教養、教育の必要性と市場原理=競争原理への批判の精神をいつでも持つようにとの警告を当時から我々に与えてくれているのである。

五代友厚の先見性は正にここにある。

「消費者マインドの学生とグローバリストの経営者が手を組んだら、日本の教育、特に大学はもう終わりである。」

五代友厚プロジェクト 代表 廣田 稔